高橋 松山 先生 「大津絵」
展示場所:3F エレベーター横
見取り図作家紹介
高橋松山 (たかはし しょうざん)
略歴
明治初年、鉄道の開通や欧米文化の浸透で大津絵の衰退が著しく、初代高橋松山等が復興を願い三井寺参道にて大津絵の店を構える。やがて大津絵の店一軒(高橋家)となる。
昭和7年(1932)現、松山生まれる。本名文平。二代目松山が大津絵の行く末を案じ、近松門左衛門の芝居「吃の又平」にあやかり、又平に点一つ加え文平と命名。昭和27年(1952)京都美術工芸学校卒業後、父の病気のため画業修得に従事。
30歳にて四代目高橋松山を襲名し、現在に至る。
大津絵とは
大津絵は今から約400年前、東海道大津の宿場で描かれ、みやげ絵として売られた民画であり湖国に生まれた豊かな庶民性を持つ民族芸術として広く評価されております。
大津絵の歴史
大津絵の発祥は寛永の頃といますから今から約370年前程(1620年頃)の昔に東海道大津の宿場で画かれ、旅人を相手にみやげ絵として売られていた地方の民画でありました。
大津絵は、最初、仏絵として画かれていたのでしたが、次第に道中の人の姿や、さらに戯画的なもの、風刺的なものなども画かれ、特に人を鬼に見たて、面 白く、軽妙なタッチで当時の人々の人気を独占していました。 幾枚も画かれるちに独特の力強い筆法を生み出し、原色五色の色彩 を巧みに調和させ今日に至るまで、それぞれの時代の背景として変化しながらも、その特色と味わいを失わずその伝統を伝えてきた大津絵は、どの絵画にも見られられない日本人の心に密着した庶民性を持っているといえるのではないでしょうか。
特に近松門左衛門が戯作「傾城反魂香」に大津絵師、吃の又平という架空の人物を登場させたことから、大津絵の人気は爆発的な流行となり、大津絵師として民謡に唄われ、歌舞伎でも、大津絵踊りが上演され、舞踊でも大津絵の生んだ画題「藤娘」がいまも人々に舞い継がれているのであります。
また、画聖、富岡鉄斎が「大津絵は吾が師である」と大いに研究され筆にされて「鉄斎大津絵」が現在も数多く残っています。
この様に伝えられた大津絵は明治に入って海外に流れ、注目されるところとなり、西欧諸国で大津絵展が開かれる等、浮世絵とともに日本の二大民画としてその地位 を得るに至りました。